いつからでも自分らしく生きられる|自分の心の声を聞いて見つけた「生きる意味」

いつからでも自分らしく生きられる
自分の心の声を聞いて見つけた「生きる意味」

私は何不自由なく育ちました。
母は口癖のように「女の幸せはお金持ちと結婚することよ」と言われ続けていたせいか、そんな相手と結婚することが「女の幸せなんだ」と思って生きていました。

商社に勤め、職場で知り合った男性と結婚。23歳でした。
夫の駐在に帯同し、トルコで5年間、そしてスペインのカナリア諸島で2年間を過ごしました。その間に男の子を2人産み、子育てもしてきました。

夫についていくことも、子育てに専念することも、夫からの要求ではあったけど自分で選んだことでもあります。
でも、振り返ってみると、いつの間にか「夫の言うとおりに生きることが正解」「母親として生きることが幸せ」という価値観を、自分の中に植え付けていたのだと思います。

だから、自分がどうしたいのか、自分は何を感じているのか。
そんなことは、ほとんど考えていませんでした。
自分の気持ちは、いつも二の次だったんです。

「自分の人生」を初めて考えた離婚

3回目の夫の駐在先はウクライナでした。
当時は治安のこともあり、子どもたちの受験のこともあり、家族全員で帯同するという選択はしませんでした。
夫には一人で行ってもらうことになりました。

それまで、家族としては比較的仲良くやっていたと思います。
ところが、2年間の駐在を終えて帰国した夫は、まるで別人のようになっていました。
向こうで大切な人ができていたんです。

帰国と同時に離婚の話が始まり、そこから壮絶な離婚バトルが始まりました。
それまで夫から「駐在についてきてほしいから、仕事はするな。子育てに専念してほしい」と言われ、その通りに生きてきました。
何度も海外についていき、家族のために尽くしてきた。

それなのに、帰国した途端
「別れよう」
「お前一人で生きていけ」

そう言われたんです。

あのときが、人生の中で一番のどん底だったと思います。
それでも、生きていかなければなりません。
保険の営業をしたり、パソコンの知識を活かして大学で情報処理の講師の仕事をしたりしながら、なんとか生活を立て直していきました。

息子の病気が、人生を見つめ直すきっかけに

離婚から5年ほど経った頃、次男が癌になりました。
次男は身体を鍛えていて、大きな病気をしたこともありませんでした。
大学を卒業し、一番入りたかった会社に入ったばかり。しかも、会社の中でも有望な人たちが行くような部署に配属され、シンガポール駐在も決まっていた時期でした。
そんな矢先の癌でした。

病気が分かった瞬間、私はショックで仕事に行けなくなりました。
なんとか仕事に行っても、電車の中で涙が止まらない。
職場でパソコンに向かっていても涙が出る。
仕事になりませんでした。

派遣だったので、一日休めばその分お給料も減ります。
家賃も払わなければいけない。
水道代も払わなければいけない。
「なんとか自分を立ち直らせなければ」と思いました。
でも、私が一番立ち直れるのは、息子の病気が治ること。
それには時間がかかります。
息子は一生懸命、治療に専念していました。
私は「自分はどうしたら立ち直れるんだろう」と、何度も何度も考えました。

真岡そら

「もし息子が天国へ行くなら、私も一緒に行こう」

そんなときに観たのが、『ミス・サイゴン』という作品でした。
そこで、息子のために惜しみなく命を差し出す女性の姿を見ました。
その潔さを見たとき、私は思ったんです。

「もしあの子が天国に行くんだったら、もう私も一緒に行こう」

そう決めたら、不思議と気持ちが楽になりました。
息子がいない世界を味わうくらいなら、一緒に行けばいい。
そんなふうに覚悟を決めたことで、私はまた会社に行けるようになりました。

そして、息子が一生懸命治療している姿を見ながら、ふと気づいたんです。
「自分の命だって、いつまであるかわからない」
1年後かもしれない。
5年後かもしれない。
3か月後かもしれない。
それは誰にも分かりません。

だから初めて、自分に問いかけました。
「この生き方でいいの?」
朝から晩まで雇われて、やりたくもないことを一生懸命やって、ただ家賃を払うために働く。
「これでいいの?」
「私は何を残したかったの?」

そこで初めて、自分自身にフォーカスを当てたんです。
「私は、どういう生き方がしたかったんだろう?」
「どうすれば、人生に悔いを残さずに済むんだろう?」

私が残したかったもの

そのとき、初めて分かりました。
私は、この世の中に何かを残したかったんです。
「自分の生きた証を残したい」
そして、自分が持っている愛を人に与えたい。
私が死んだとしても、その愛が波紋のように広がっていってほしい。
そう願っている自分に気づきました。

そして、
「私は起業するしかない」
と思ったんです。

今までの働き方では、自分がやりたいことはできない。
そう思って、起業を目指すことにしました。
とはいえ、何をやったらいいのかは分かりませんでした。
ずっと駐在員の妻として生き、子育てをしてきた。キャリアを積んできたわけでもありません。
パソコンの資格は持っていましたが、それだけで自分のやりたいことができるわけでもない。
「何をしたらいいんだろう?」そればかり考えていました。

「写真を仕事にしたら?」と言われても、最初は嫌だった

起業について勉強するため、起業塾に入りました。
そこでいろいろな経験をし、学んでいきました。
すると、何人かの人から、
「写真をやったらいいんじゃない?」と言われました。

でも、私は写真が好きだったけれど、趣味だったんです。
「写真を仕事にはしたくない」そう思っていました。

最初は「カフェをやりたい」と言っていました。
写真が好きな人たちが集まるようなカフェをやりたい。そんなことを考えていたんです。
でも、いろいろ突き詰めていくと、「なんか違うな」と思うようになりました。

そんなとき、同じ塾生の友達から、
「私、自分の顔があまり好きじゃないんだけどそらちゃんに写真を撮ってもらわないと写真が必要だから」と言われました。
人物写真はあまり撮っていませんでしたが、撮ってみることにしました。

すると、その彼女がどんどん生き生きしていくんです。
撮った写真をカメラの画面で見せると、「こんなに可愛く撮れてるじゃん!」と言って、彼女自身も楽しそうにしていました。
そして、写真を見た彼女の目から、涙が流れました。
「私、こんなに素敵だったんだ」
そう言われたんです。

「これをやる」と決めた瞬間

そのときの喜びは、今でも忘れられません。
「私、これをやる」
そう思いました。

こんなに喜んでもらえる。そして、自分もこんなに嬉しい。
身体中の細胞が、さわさわするような感覚でした。
「何これ?」「この喜びは何?」
彼女も喜んでいる。私も喜んでいる。
「これが、塾で言われていたことなんだ」と初めて体感したんです。

先生に、「私、これをやりたい」と伝えると、「写真はやらないんじゃなかったの?」と言われました。
でも、
「やってみたら、鳥肌以上の何かが起きた。身体が震えるくらい嬉しかった。彼女にも喜んでもらえるなら、私にはこれしかない」
と伝えました。

すると、
「写真は工夫すればマネタイズできる。でも、写真をやる人はたくさんいるから、もしかしたらお金にならないかもしれない。それでもやりますか?」
と聞かれました。
私は、
「やります。何とでもなると思う。この喜びを私は忘れたくない」
そう伝えました。

そこから、写真家への道を進み始めました。
そして今、私は人物専門写真家として活動しています。
息子は治療が順調に進み、癌が消えておかげさまで今は元気に過ごすことができています。

技術以上に大切なのは「魂が震えるもの」

もちろん、写真の技術も学びました。
マーケティングも、それまで全く知らない世界だったので勉強しました。
事業計画書や報告書の書き方など、必要なこともいろいろ教えてもらいました。
でも、今振り返って一番大切だったと思うのは、
「自分の魂が震えるものを突き進めること」です。

しんどいことはあります。
でも、自分の魂が震えるものを持っていれば、また立ち直ることができる。
私は今、起業家や経営者の人物写真を撮っています。
ただ、その人の姿を撮るだけではありません。
その人が持っている理念や、仕事への思い。「なぜこの仕事をしているのか」という、その人の軸を写真にしています。
自分の思いを軸に働くことの大切さも、写真を通して伝えていきたいと思っています。

人生に「遅すぎる」はない

私が離婚したのは46歳。そして、53歳くらいから起業しました。
かなり遅いスタートだと思います。
そして、それまでの経験は、決して無駄ではありませんでした。
むしろ、そこまでの経験があったからこそ、今の私があります。

人には、それぞれのタイミングがあります。
だから
「遅い」とか「早い」とか、そんなものはないんです。

私は、自分がそこまで追い込まれないと気づけなかったタイプでした。
でも、誰もが同じように追い込まれなければ気づけないわけではありません。
追い込まれなくても、自分の人生に気づける人はいます。
だから、私のような経験をしなければ気づけない、とは思ってほしくありません。

本当の喜びに気づくこと

私は離婚をしても、目の前のお金を稼ぐことに必死でした。
家賃を払って生活していく。それだけで精一杯でした。
でも、今振り返ると「あなた、本当はどうしたかったの?」と、自分自身に向き合うための時間だったのだと思います。

子どもの命を失うかもしれないというところまで来て、ようやく私は気づきました。
今考えれば、それは神様からのギフトだったのかもしれません。
もちろん、もっと早く気づけたらよかった。
でも、それまでの経験があったからこそ、今の私がいます。

だから私は、できればお金も得ながら、自分が幸せだと思える生き方、働き方をしてほしいと思っています。
自分が満たされる仕事の仕方。
自分が満たされる生き方。

そんなものを見つけてほしい。
そして、それを伝えることが、今の私の役目なんじゃないかと思っています。

「そらさんだからできたんだよ」
そう言われないように、誰にでもできることとして伝えていきたいんです。

夢をあきらめないでほしい

私は、女性で
「離婚したいけれど我慢している」
「親の介護があるから、自分のことは我慢している」
そんな人たちにも伝えたいです。
もちろん、そういう時期が必要なこともあると思います。
でも、夢は捨てないでほしい。

やらない理由を見つけるのは簡単です。
でも、本当に自分の夢をあきらめてしまっていいのでしょうか。
「何がやりたいのか分からない」
「今の状況からどう抜け出せばいいのか分からない」
そんな人もいると思います。

私自身も、最初は何をしたいのか分かりませんでした。
だからこそ、まずは自分の心と、しっかり会話してほしい。
自分の心の声を、よく聞いてあげてほしいんです。

今までは、「そんなことを考えたら生活が成り立たない」と思っていたかもしれない。
でも、もういいんです。
あなたの中にある声を拾ってあげてください。
そして、その声の通りに生きてみてください。

誰にでも、自分らしく生きられる可能性があります。
「女性だから」「もう60歳だから」そんな理由はいりません。
年齢も、性別も、遅い早いも関係ない。
どうか、自分の夢をあきらめないでください。

それを一人でも多くの女性に伝えるのが
私の使命なのかもしれませんね。

真岡 そら(Maoka Sora)

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